Raoul Dufy Nice – Google 検索

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デュフィはたくさんニースの絵を描いていました。1世紀前のニース。海辺に沿って椰子の木がある絵はまず、ニースの絵じゃないでしょうか。プロムナード・デザングレと題された絵もたくさんありますね。100年前はヨーロッパのお金持ちの保養地でした。

四半世紀前にニースに少しの間住んでいたことがあります。それ以来一度も行っていませんが、町の雰囲気は変わったのでしょうか。住んでいたアパルトマンのポストにはよくFNの議員のチラシが入っていました。当時ではめずらしくFNの支持が結構高い地域だったのです。

住民はフランス人なら圧倒的に老人が多く、そうでなければ勉強に来ている大学生。もちろんまじめな留学生もたくさんいましたよ。そうそう、当時はフランスも徴兵制があったから(シェルブールの雨傘のようですねw)、どうやったら(精神病扱いで)徴兵逃れをできるかとか自慢話も聞きました。そんな調子だからいわゆる失業状態であそこに暮らしている男子はろくなもんじゃなかった気もしないでもないかも。

こんなところに遊び半分で来る日本人としてはひどくお金がないほうだったので、安い屋根裏部屋にしか住めず、だからそこには私も含めていわゆる移民のカテゴリーに入れられる人たちが多く住んでいました(持ち主はフランス人で移民の人たちに貸していたんでしょうね)。アフリカ系、東南アジア系、アラブ系……。だから、まったく最高のギャグだわと思いながらFNのチラシを見たものです。だからルペンといえば私はやっぱりあの親父のほうを未だに真っ先に思い浮かべてしまいますね。

私が未だに使っている住所録には、学食で働いていて、よく軽口をたたいて私を笑わせてくれたチュニジア人移民のおじさんが私の名前をアラビア語で書いてくれた文字がそのまま残っています(本名書いてもらってるから載せるなんて愚行はしないよ)。

別に何を主張したいというわけではありません。四半世紀前だからまた今の状況も違うでしょう。でも私が知っていたニースは、ぼんやりバスで座っていると強引にその人を引きずり下ろして自分が座る名物おばあさんがいたり、失業中の若者がそれぞれの家で毎晩のようにパーティーしたり、ぼけーっと一人で歩いてりゃおじいさんに高級なティーサロンでお茶をおごられて一緒に旅行に行かないかと誘われたり(なんじゃそりゃ)、そりゃパリと違って銀行員とか店員とか堅気な職には就かせてもらえなかったとはいえ、それはそれでまあまあ楽しそうにしていた移民の人たちが暮らしていて、互いがとりたてて仲が悪いなんてこともなかった、そんな町でした。

ティーサロンのおじいさんもそうだけど、私、ニースではじじい受けがよかったみたいで、郵便局のじいさん職員にもナンパされたりありゃいったいなんだったんだろうと今でも思います。あと、ある若者のパーティーで、さんざん日本人女性のなんというか尻軽さ(こんな言葉日本語で今更存在するのかも知らないけど)について話題になって嫌になっちゃうなあと居心地悪くなった後で、マリファナ吸ってる白人のねえちゃんに「あら、あんたフランス語わかるの?この子は頭がいいみたい!」と笑われたのが印象深い思い出ですね。

まあなんだろう、滞在先パリにしておけばよかったかもと思ったりした頃の話です。