だって以前から真央ちゃんはあれぐらいの表現ならできてたでしょうよ。

単に選曲の問題じゃないかと思いますよ。だって今回は記号的にあからさまにわかりやすい曲だもの。蝶々夫人でなおかつあの曲なんだから。何を表現するのか、見る側が、はっきり言わせてもらうと「プログラム見なかったとしても」察しがつくぐらいわかりやすい選曲でしょ?

ジャッジはともかく(と言っておくよ。それも怪しいけどとりあえず)、特に日本で解説をやってる人たちとか、まあマスコミ一般に、そういった「定説」がないものから演者が演じようとするものを読み取るセンスがあんまりないんだと思う。

となると、選手とかコーチとか振り付け師側が自ら講釈してくれるわけですよ。この曲はこういうことを表現するんだ、とかどういうテーマでやってるんだとかインタビューとかで説明しちゃう。いい悪いはともかくとしてね。たとえば羽生君なんて懇切丁寧に解説してくれちゃって、もはや見る側の自由な解釈すら許さないぐらいじゃないですか? 私がつい「羽生君の演じるプログラムは見る側にとって意外性があるようでないところがつらい」と言いたくなってしまうのは、そういうところなんです。

繰り返しいいますが、いい悪いはともかく、です。選手の多くがやっぱりまじめだし親切だし、聞かれたことにはちゃんと真摯に答えるからそうなっちゃうんだと思います。口が達者な選手ほど、そういう方向に陥りやすい。

話はそれますが、あの町田君の何がすごかったのかといえば、ああだこうだ本人がうんちく語っている割には見ている側に演技の解釈を許してくれていたことだと思います。解釈の仕方そのものずばりを言わなかった。自分の演じるものを批評する解説者にはならなかった。

でもあらかじめ「定説」があるほうが日本、ひいては世界のメディアや解説者にはわかりやすいんでしょうね。

真央ちゃんはそこまでわかりやすい曲をこれまで選んでこなかっただけの話。物語の登場人物を演じるというのも、競技プログラムではほとんどやったことがないぐらい(白鳥の湖/シェヘ(失礼)ラザードとかそれぐらい? あとはくるみ割り人形とかカルメンまでさかのぼっちゃうよ)、それまでの選曲が簡単に得点を稼ぐという意味ではリスキーで挑戦的だったことなんです。だからタラソワは偉大なんですよ。

ともかく、やっとジャッジや日本スケート連盟関係者やフィギュアスケート解説者でも誰でも、うちの連れだって演じているものが何であるのか確信できる選曲を真央ちゃんとローリーがしただけの話なのです。だめを押すかのように衣装にも蝶がついているし。

そういうわかりやすい曲をやってみれば、やる力なんてとうにあったけど、ただ、やる機会がなかっただけ。本人も特定のキャラを演じるというベタなチョイスを避けていたように見えますし。それどころかにっぽんスマイルラジオでも「あえて単調な曲やりたい」とか言ってたじゃないですか。(とはいえ、あまり深くは考えていなかったと思いますけどね。)

でも、今回はこだわらずにわかりやすい曲をさらっとやることにした、という意味では、その意味においてならば、「大人な」真央ちゃんになったのかもしれません。

また話がそれますが、ローリーの指導でなんだかなあと思うことがあります(実はタラソワもそうだったのかもしれないけど)。たとえば「ノクターン」や「ため息」をスケーターに滑らせるのに「初恋をイメージしろ」とかそういう風にテーマ決めちゃうこと。なんで音を感じて心が動くままに表現してみれば、って言わないのかな、と。それに別に失恋をイメージしていたっていいじゃんね。

まじめな知子ちゃんは律儀にいろいろ考えてやっているようで、それはそれですばらしいのですが、真央ちゃんの場合(本気かどうか知らないけど)あの優雅なノクターンは犬のエアロをイメージしていたものらしいですからね。おそらく、実際にエアロはイメージしていなかったと思いますよ。音を感じ取ってそれを体全体で表現していたと思います。ローリーの「初恋をイメージ」なんていう言葉を適当にスルーしていたのがよかったのだと思います。

昌磨君も音楽を聴いて自分で好きなように解釈して体全体で表現したいタイプなのでしょうか。「誰も寝てはならぬ」。あんまりこのオペラの詳しいこと知らないけど、あらすじ読んでしまった上で昌磨君のあのプログラム見ると、とりあえず「皆殺しにするぞ」とか言ってるのは姫じゃなくて王子なんですかね?と思っちゃうぐらい殺気立ってるのに、動きと音がはまっていてすんばらしいと思いました(まじでほめてます)。あればっかり10回ほど繰り返して見ちゃったよ。

追記(2015/10/21):最近少しアクセスが増えたので読み返してみました(そしたら信じられない打ち間違いしていて吹きました)。真央ちゃんのカムバックについてはほかの記事もよろしかったらどうぞ。