というわけで1ヶ月ほど前にやっと『チーム・ブライアン』を借りて読みました。

どういう風に感想文を書こうか2週間近く迷ったのですが、共感できたところとできなかったところをいくつか分けて投稿することにします。

今日は「一人の親としての共感編」

ともかく子供へのコーチングという意味では抜群に興味深かった。

オーサーって相当辛抱強い人と思います。自分の意見を頭ごなしに生徒に押しつけなるようなまねはしないようです。

たとえば私の息子は(突出した才能には恵まれていませんが)かなり気質がハビエルと似ているようにみえます。で、チーム・ブライアンは、うちの子どもがそのまんま大きくなっちゃったみたいな、よく言えばおおらかな、悪く言えばテキトーでいちいち物事を細かく考えそうにない青年を、日常生活から面倒見て、なおかつ長所を見いだして、しかも社会に(いまやフィギュアスケートの場合は「ジャッジ」に、ですかね)評価されるようにもっていくわけですよ。

たくさんお金もらっていればできるかといえばそうだとは私にはとても言えない。お金がからんだ契約なら私は断ってますよ。私が自分の息子を見放すことができないのは、私たちがひとえにお金で反故にできる契約で結びついた間柄じゃないから。愛情というイメージでコーティングした義務感ですよ。自分の意思次第、望めば逃げようのある「責任感」ですらない。といっても義務感で子供に接しているなんて本気で思ったら人生に絶望してしまいそうになるので、義務感という名前の「愛情」だと信じるようにしています。

もうね、大きくなってくると息子って意識的に「この子はかわいいんだ」って思わないとやってられないですよ。欠点も愛嬌だと思わないとやってられないです。ただし自分の息子ならばふしぎなことに、そのように思い込めるものなのです。じゃあオーサーはハビエルに対してどうなのと。よく教え子に対する信頼と責任感でそんな難しいミッション遂行できるなと。

「ハビエルだけを谷に突き落として上がっておいでと言ったら、ハビエルは谷の中で暮らしてしまうタイプ(※原文ママ)という一節は、この本の出版直後にフィギュアスケートファンの間でも話題に上りましたが、そういうハビエルの思考回路、私は痛いほどわかります。うちの子もそうだから。

意地でも這い上がってやると思うのではなく「あーあ、先生(別に「お父さん」でも「お母さん」でもいいんですけど)怒ってるみたいだなあ。登り方わからないし、しょうがないからここにいるしかないんだろうなあ」と変にあきらめがいいんです。思考回路が「僕のこと怒ってるみたいだ。どうして怒られているのかよくわからないけど、僕はどうすればいいんですか?と聞いたら余計に怒りそうだからじっとしてよう」という方向に行ってしまうの。そういう子って、いや大人でも実はけっこういると思います。

だから、その前のハビエルがカナダに来たときのことが、かなり私の心に響いたので引用しますね。ツボにはまったところはアンダーラインを引きます。

最初彼は7月に来ると言っていましたが、遅れて8月になりました。理由はないのです。スペイン人だからでしょう。いまでも私のオフィスに初めて現れた2011年8月のことを覚えています。私は腕時計を見、カレンダーを見て、「遅くとも来ないよりはいい。君はここに来た、それがすべてだ」と言いました。その瞬間、2人はお互いを信じ合ってしまったのです。ハビエルの目はキラキラしていて、遅れたことに深い意味はないのがわかりました。彼のほうは怒られなかったのがうれしかったのかもしれません。アパート探しから生活のことまで、いきなり私に質問してきました。こうして突然、世話の焼ける息子ができてしまったわけです。

そう、親としてはね、息子がだらだらしていると「どうしてだらだらしているの、手際よくできないの」と問い詰めちゃうんですよ。でも本人にしてみたら「どうして」なんて言われてもさしたる理由はない。スペイン人だからどう、というのはオーサー流の冗談かもしれません。厳密に言えば、ほかのことに気をとられてしまって、今やらなきゃいけないことが進まない、というのが本当のところでしょう。

だもの悪気が全くないから目もキラキラしている。そして、おそらく自分にとっての懸念は相手が怒っているかどうかだけなので、そうじゃないとわかればすっかり安心して急に自分のペースで雄弁に話し出したりするわけです。

これって私は親として息子とつきあいがそれなりに長いからわかりますけど、この人は私生活で子供を育てていないんですよね? にもかかわらず、こうした「だめな人」に対してもその立場で考えることができる、つまり読みがいいんですよ。その辺がオーサーはすごいなと思うところで、いやまあ本当に恐れ入るわけなのです。

そこで「ハビエルだけを谷に突き落として上がっておいでと言ったら、ハビエルは谷の中で暮らしてしまうタイプ(※原文ママ)」という一節にもどりますが、実はこの文章に続く一文が、「ああ、私も、こういう子どもにはそうしなきゃいけないんだな」と反省した次第なのです。

ハビエルだけを谷に突き落として上がっておいでと言ったら、ハビエルは谷の中で暮らしてしまうタイプ。そうではなく、チーム・ブライアンみんなで一緒に飛び込むのです。トレーシーも、デイヴィッドも一緒です。その一体感がハビエルを変えました。(中略)自分の可能性に気づいた彼は突然、責任感が出てきました。

で、このことの意味は、むしろその前にうまくまとめられているんですよね。

ハビエルの以前のコーチたちは、ハビエルが何の計画性もないので、ただ怒り、イライラしていたのでしょう。ハビエルを根本的なところから助けようとはしなかったのだと思います。技術的なこと以前に、アスリートとしての心構えや、目標を設定してクリアする喜びを教えればよかったのです。ハビエルに必要なのは、チームのみんなで世話を焼くことでした。
なぜ私がここまでできたのか。それは一にも二にも、私がハビエルを信じたからです

いやあ、オーサー曰くハビエルは息子のような存在らしいけど、それだってすごいですよ。だって私は息子を根本的に信じることができるかといえば、まったくそうじゃないですから。もう信じていないから無駄に口やかましい。それこそただ怒り、イライラしています。

というわけで、ハビエルと羽生君に対するアプローチの違い、目標の立て方の違いもしっくりきます。ああ、うちの息子はユヅルタイプじゃない。羽生君であることを求めてはいけないと思うわけです。

ユヅルと座って一緒に目標や予定を立てるとき、彼は自分が取り組んでいることをよく理解しているので、アイデアや意見が出てきます。ユヅルが何かを望み、チーム・ブライアンがその夢を引き受けるというやり方をします。私から選手に「ああしろ、こうしろ」と言うのはよくありません。これは私が若かった頃、コーチから学んだことです。
ハビエルも最初は同じです。一緒に座ってスケジュールを決めます。ただし、彼にはフォローが必要です。目標を紙に書かせ、私が預かります。彼がセッションをすっぽかしたら、私はハビエルが書いたスケジュール表を持って行って、「君は水曜日の朝に滑るといったのに、来なかったね。これは君の計画だ。君がしたいことだろう? どこに行ってたんだ?」と言うのです。どうせ徹夜でテレビゲームをしていたこともわかっているので、その場合は「いいかい、私は地獄耳だ。何でも知っているぞ」。

ああ、うちの息子が羽生君タイプだったら子育てという意味では楽だったのかなあ、なんて思うわけなんですけどね、オーサーが私の立場だったら決してそんなふうには思わないと思う。羽生君は羽生君、ハビエルはハビエル。いやはや、辛抱強いですよ、この人。

さて、ハビエルはそういうマイペースなところはあるにしてもある意味ふつうの青年らしいですが、キム・ヨナとか羽生君なんてどちらかといえば浮き世離れしてる部類の人ですよね。こう言うのもなんですが変人の部類じゃないですか。さすがに羽生君の親御さんがコーチに対して要求が大きいとは聞きませんが、キム・ヨナに至っては、親が娘をリモコン操作しているようなものですし。

最初の一年、ヨナが毎日練習中ずっと泣いてるもんでびっくりしたなんて逸話、それに似たような話は福原愛ちゃんが天才幼稚園児として取材受けてた頃の事例しか思いつきません。でもヨナの場合、幼稚園児でもないし、どうも読んでいると悔し泣きというわけでもなさそうですし、もうそれは単に異常じゃないかと。

それだって「あの母親の押しの強さがなければヨナはあのレベルまでは来られなかっただろう(※原文ママではないですよ、要するにそういう風にオーサーの言葉を私は理解しました)。自分としてはスケートをやるなら喜びを見いだしてもらいたいけど」などとオーサーは言いつつあの親子に理解を示すわけです。そのほうが読者にいい印象を与えるという打算がもしかしたらあるのかもしれませんが、その割にはヨナについてもしれっとしゃれにならないことをかなり書いているわけですから、オーサーがとりあえず「そういう文化だからそういうものなのかもしれない、きっとその文化圏の人たちにはそれがいいのだろう(※原文ママではありません)」と納得しようとしてしまうのは、本心のように思うのです。

でなきゃ「7月に来るといっていたのに8月に来た。スペイン人だからそういうものなのだろう(※原文ママじゃありません)」などと自分を納得させないです。そして、教え子が頭から血を出していても、リンクに出て演技すると言い張れば、「医者も大丈夫だと言ってるし、そういう何が何でも試合に出るというメンタリティや文化の持ち主なんだからそれでいいのだろう(※これは原文にはありませんよ)」って納得しようとしてしまう。そこで滑ってまた激しく転んだらどうするんだとかリスクは考えられるのに。ただでさえできることよりも気持ちがまさってしまう性格の教え子なのに、その教え子を「信頼して」その言い分を最終的には認めてしまう。他文化に対する許容という意味では、度が過ぎるほど謙虚で、辛抱強いように思うのですわ。

キム・ヨナに話を戻しますが、何をどうするにも決定権がヨナにあったようには見えませんし、とりたてて器用だとか運動神経が良さそうとか天賦の才能に恵まれていたようにも思えない(実際、驚くほどこの本ではヨナの長所について「具体的」にはほとんど書かれていない。どのようによく見せて、彼女に自信を持たせ、自滅しないようにさせるかという話ばかり)。

それでもなんとか長所を見出して(たとえば彼女の場合はおそらく、下手な向上心がないおかげでリスクを負おうとしないところですよ。簡単で限られた少ないことを延々と我慢して練習できる)、それを強化して、五輪優勝という教え子のニーズ(たぶんオンリーワンよりもナンバーワンであることのほうが優先順位が高かったのでしょうね)にちゃんと合わせて、考えられ得る限りベストな対応するわけです。そういう意味……その点においては少なくともオーサーは誠実で辛抱強い(教え子ではなくライバル関係にある選手たちに対しては誠実じゃなかったとしても、所詮自分の生徒じゃないわけだし)。

なので、オーサーが真央ちゃんを引き合いに出してはったりかましたとかいう噂はあるとはいえ、キム・ヨナとの決別についていまだにオーサーとしては腑に落ちないのはわかる気はします。これについては話がそれるので別ページ(※用意したらリンク張りますね)で。

なんだかオーサー本で自分の子育て顧みる羽目になるとは思いもよらないことでした。

次回は「スケートの見方についての共感編」ですかね。その次が「スケートについて共感できない編」

近々しばらく旅に出るので更新は早くて今月の後半になると思います。(次の目標は旅先からインスタグラムで写真をアップすること?)なお「スケートについて共感できない編」は微妙に「審判の公平性って何なんでしょうね?」という終わらせていないテーマにもリンクさせることになると思います。まあ「審判の公平性って何なんだろう?」って思ってた矢先に『チーム・ブライアン』を借りる順番が回ってきたせいでそのあたりのことが気になってしまうのかもしれませんが。

今日の午前中、気になるところは全部抜き書きしておいたのであとはどうまとめるか、やる気次第!

※ 投稿が進まない言い訳多々のエントリになってて自分で苦笑い。

※※ うちの息子についてはこれを書いた頃からさほど変わっていません。泣かなくなった代わりに、それまで見過ごされがちだったマイペースぶりが目立ってきたのかなあ、などと。